メジャーリーグ・ドジャースと12年で約465億円というメジャーの投手史上最高額となる超大型契約が決まった山本由伸選手。
そんな山本由伸選手の高校時代の球速や億越えメジャープレーヤーの原点を作った監督はどんな方だったのでしょうか?
気になったので、山本由伸選手の高校時代について調査してみました。
この記事でわかること
・山本由伸の高校時代の球速
・山本由伸の高校時代の監督
・山本由伸の高校時代エピソード
山本由伸の高校時代の球速
山本由伸選手は、宮崎県の都城高校野球部でした。
甲子園にも何回も出場経験のある野球の有名校ですね。
山本由伸選手の高校入学当初
山本由伸選手の球速は130~140㎞前後と、強者揃いの都城高校では目立つ選手ではなかったようです。
また、投手1筋でやっていたわけではなく、サードも兼務していました。
ピッチャーとサードの二刀流をされていたんですね!
サードを任されていたということは、守備力も高かったんですね。
基礎トレーニングとして、この頃は毎日30分間走→20分間走→10分間走、と長距離の走り込みを行っていたそうです。ただこれだと、なかなかパワー系の瞬発力のある筋肉にはならないですね。
山本由伸選手の急成長
投手としては目立たない存在だった山本由伸選手はその後、投手に専念します。
すると、高校1年生秋には球速138㎞、高校2年春には球速140㎞を超え、高校2年夏には球速148㎞とめきめきと記録を伸ばしていきました。
そして、高校二年生秋の新人戦では、球速151㎞をたたきだしし、さらには決勝でノーヒットノーランまで成し遂げます。
その裏には、
僕は背だけは高い方でしたけど凄く細くて力がなかった。そこから高校になってちょっとずつ体重が増えていくにつれてパワーがついたかなと思います
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と話されているように、トレーニング方法も長距離を走りこむトレーニングから、短い距離を走りこむような下半身強化のトレーニング法へ変更したり、体づくりにも積極的に取り組み、山本由伸選手自ら監督にブルペン入りを増やしてほしいと要望したりという努力がありました。
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投手として絶対強くなる!という覚悟のようなものを感じますね。
そして、自分が信じたことをやりきる力も今の山本選手につながっているのかなと思います。
さらに、山本選手は球速をあげるだけではなく、カーブ、スライダー、カットボール、フォークなど変化球も自在に操れるようになっていきます。
その結果、
・九州産業大学付属九州産業高校の梅野雄吾選手(現在ヤクルト)
・福岡大学附属大濠高校の浜地真澄選手(現在阪神)
・鹿児島・れいめい高校の太田龍選手(現在巨人)
の3人と併せて“九州四天王”と呼ばれるようになります。
おまけ:山本由伸の中学時代の球速
山本由伸選手は、中学時代、東岡山ボーイズに所属し投手をしていましたが、この時もセカンドとの兼務で2番手の控え投手だったそうです。
しかし、中学の入学当初は120㎞くらいだった球速が、中学卒業の頃には、球速130㎞と中学生時代にも急成長を見せています。
山本由伸選手は、自身の中学時代について
「僕は背だけは高い方でしたけど凄く細くて力がなかった。」
と話しています。
中学時代から投手としての才能は開花しつつあり、高校でのトレーニングなどで体ができあるとともに実力が花開いたのかもしれません。
山本由伸の高校時代の監督
山本由伸選手が、投手として才能を開花させた高校時代を支えた監督は誰だったのでしょうか。
そこには、2人の恩師の存在がありました。
森松賢容監督
森松賢容監督は、山本由伸選手を都城高校に引き入れた、いわばターニングポイントを作った人です。
もともと、岡山の作陽高校でコーチをしていた森松賢容監督が東岡山ボーイズに挨拶に訪れた際に、山本由伸選手を見て、『あの子、連れていっていいですか?』といったそうです。
そして、都城高校入学後に、山本選手の投手としての才能いち早く見抜き、投手の基盤を作られました。
森松賢容(もりまつ よしひろ)
・熊本県御船町出身
・小学2年生から野球を始め、鹿児島実高に進学
・高校時代の恩師の熱心な指導に心打たれ、指導者の道を志す
・大学卒業後は瀬戸内高野球部(広島県)のコーチ・監督、浦和学院(埼玉県)、作陽(岡山県)でコーチを務める
石原太一監督
山本由伸選手が高校入学時、コーチとしていたのが広島経済大学の学生だった石原太一さんでした。
そして山本選手が高校2年時から監督に就任したので、石原監督はその当時22歳の若さでした。
山本由伸選手が高校3年時、甲子園出場は叶いませんでしたが、そのことについて「勝たせてあげられなかったのは、すべて私の責任です」と話す石原監督ですが、山本選手はあの時の敗戦があったから、今プロとして野球ができているとのちに語っています。
日本シリーズで着用していたユニフォームに、サインと共に「感謝」を記し石原元監督に渡されていました。
石原太一(いしはら たいち)
・岡山県備前市出身
・弟の石原与一が山本由伸の1年先輩で少年野球時代のチームメイト
・現在は会社員
山本由伸の高校時代エピソード
いまでこそ沢村賞はじめ数々の投手5冠を受賞する山本由伸選手ですが、高校時代はどんな球児だったのでしょうか。
高校時代のエピソードについてもまとめてみました。
泣き虫だった?
高校入学当初の山本由伸選手をよく知る森松監督は、
「高校1年の彼は弱々しくて、すぐ涙目になる子だった。」
と話しています。
そんな山本選手を強くするため、森松監督は厳しく叱ることもあったようです。
高校1年秋の延岡学園戦で、天候やグラウンドなどの状況の悪さを理由に自分本位のピッチングをしていた山本由伸選手。2回まで7-1でリードしていた試合も最終的に9-10で逆転負けを喫し、その時に山本選手は人目もはばからず大号泣し、その後帰りのバスでも泣き続けたようです。
その悔しさをきっかけに、野球への取り組む姿勢が変わったといいます。
メジャー投手史上最高額での契約を結ぶ選手にも、こんな時代があったかと思うと今野球に打ち込んでいる野球少年にも希望をあたえてくれますね。
肘の痛みを隠し登板
山本由伸選手の高校最後の夏の甲子園では、右肘の痛みがある中で、ずっとマウンドに立ち続けていました。
そんな痛みを抱えながらも、山本選手は最高球速148㎞をたたき出し、変化球も駆使しながら10個の三振を奪います。両チーム無得点のまま投手戦となっていましたが、5回裏に先制点を取られ、敗退してしましました。
しかし、驚くべきことに、この肘の痛みを当時の監督だった石原太一監督に告白したのは、5年の月日が経ってからでした。
プロとして成果を出した後に、あの時の敗退があったから今の自分があると言えるのは、すごいことですし、人としてかっこいいですよね!
まとめ
メジャーリーグ・ドジャースと12年で総額3億2500万ドル(約463億円)で契約合意した山本由伸選手の原点となる高校時代についての球速や監督について調べてまとめてみました。
・山本由伸の高校時代の球速は、入学当初140㎞前後だったが、最高151㎞にまで急成長
・山本由伸の高校時代の監督は、森松賢容監督と石原太一監督
・山本由伸の高校時代は、泣き虫からチームを背負い肘の痛みを隠して登板するまでに成長
山本選手は高校時代に、投手としても、人としても大きく成長し、今の躍進につながっているということがわかりました!
今後の活躍にも目が離せませんね!